• 記事を共有する

INTERVIEW インタビュー

日本にフルCG アニメは根付くのか?
識者に聞く、和製3DCG アニメーションの未来

【第16回/2013年11月号】
河口洋一郎(CG アーティスト/東京大学大学院 情報学環 教授)

日本におけるフル3DCGアニメーション制作への理解と振興を目指す本連載。今回の語り手は、CGアーティストの河口洋一郎氏だ。1982年のSIGGRAPHで河口氏が発表した、自己増殖する造形理論「グロースモデル(The GROWTH Model)」は、世界中から集まったCG関係者に絶賛された。その後も河口氏は精力的に研究・芸術活動を続け、現在は東京大学大学院情報学環の教授を務めている。そんな河口氏に、これまでの歩みや、CGを用いた創作活動の可能性を語ってもらった。

【聞き手:野口光一(東映アニメーション)】
Supported by EnhancedEndorphin

僕のCGは、SIGGRAPHに並走する形で進化しました

東映アニメーション/野口光一(以下、野口):僕が初めてSIGGRAPHに行ったのは1980年代の後半なのです。その時点で既に河口先生はSIGGRAPHの著名人の1人で、先生が主催するSAKE(酒)パーティはSIGGRAPHの名物イベントになっていました。
そして現在にいたるまで、SAKEパーティは毎年開催されている。CG黎明期から第一線で活躍し続けてきた河口先生が、何を考え、何を感じてこられたのか、ぜひ伺ってみたいと期待しています。

河口洋一郎(以下、河口):僕のCGは、SIGGRAPHに並走する形で進化しました。最初にSIGGRAPHに参加したのは79年です。79〜82年頃はCGにとって激動の時代で、革新的な技術が毎年のように発表されていましたね。ただ、当時はまだCGとかコンピュータ・グラフィックスという言葉を使っていなかったような記憶があります。コンピュータ・アートと呼んでいましたね。僕を含め、79年頃の日本の大学では、ベクター型の線画をプログラミングで作っていたのです。ところがSIGGRAPHに行ってみたら、アメリカの大学が作るCGはラスタ型で、画素には色が付いていました。
「これは大変だ」とショックを受けて、それ以来、毎年欠かさずSIGGRAPHに参加していますね。

野口:その時に受けた衝撃が、82年のSIGGRAPHでのグロースモデル発表のきっかけになったのでしょうか?

河口:そうです。79年の時点で彼らはレイトレーシング法を開発しており、ガラス玉を透過した光の屈折まで表現していました。自分との技術力の差に愕然としましたね。だから帰国してからは、何とかして彼らに追い付こうとグロースモデルの改良に励んだのです。81年頃には雑誌や学会誌に色付きのグロースモデルが掲載されるようになりましたが、SIGGRAPHでの発表は82年でした。

野口:そのグロースモデルは、オリジナルのソフトウェアで描いていたのですか?

河口:昔も今も、僕はインハウスツールしか使っていませんね。79年の時点ではFORTRANでツール開発をしていました。でもそれだとベクター型の線画表現が限界で、色を付けたりするのは難しかった。だから帰国後は使用言語をFORTRANからC言語に変えて、表示方法も全部見直しました。でも国内のTVCMなどは、80年代中盤くらいまで線画表現が主流でした。青白く光るワイヤーフレームばかりが使われるので、関係者に何故かと聞いてみたら、「色を付けてしまうと、一般大衆はCGだとわからないから」という答えが返ってきました(苦笑)。

野口:先ほどおっしゃっていたように、80年代のCGは新しい表現が次々に発表されていました。世間のCGに対するイメージが、進化のスピードに追い付いていなかったのでしょうね。

河口:79年にレイトレーシング法が発表され、80年代に入るとフラクタルが登場しました。僕がグロースモデルを発表したのが82年で、翌年からは植物の自動生成などの類似研究が数多く発表された。90年代に入ると、バーチャルリアリティが出てきましたね。当時のレンダリングには時間がかかったので、表示できる画像は単純だったし、反応速度も遅くはありましたが。その頃と比較すると、今は根本的に斬新な表現は出て来ない時代になっています。同じ表現を、より緻密に、より高速に計算する方向に向かっている。

野口:ピクサーの『トイ・ストーリー』が1995年に公開されたりして、CGでの表現に必要な手法は90年代にだいたい出そろいましたからね。

河口:CGが脚光を浴びていたのは、90年代までだったような気がしています(笑)。
2000年代以降になると、世の中の人たちの目が肥えてきて、CGは見慣れた存在になりました。コンピュータやソフトウェアの価格が安くなり、リアルタイム・レンダリングの速度が上がってきたお陰で、簡単に高度な表現ができるようになり、それに比例してCG制作のコストも安くなった。現在のCGは何かに応用するための基礎技術になっており、CGだけで食べていくのは難しい時代になっています。僕がSAKEパーティを始めた頃と比較すると、CGを取り巻く状況は大きく様変わりしました。

野口:SAKEパーティは、いつ頃から始められたのですか?

河口:80年代の中盤ですね。アメリカのSIGGRAPHで、日本からの進出を意識させるような記念碑的な盛り上げをやろうと思ったのです。初回は日本酒の一升瓶を持っていったのですが、どうせなら文化と味覚の交流ができるセレモニーにしたいと思い、2回目以降は大きな酒樽の蓋を木槌で割る、いわゆる鏡開きのスタイルにしました。
そうしたら直ぐに有名になって止められなくなり、もう26回もやっています(笑)。
最近ではSIGGRAPHの会長が必ず予定を空けていて、「私にはあれ(酒樽の蓋)を叩く権利がある」って言いながら、嬉々として壇上に立ってくれるようになりました。

野口:SIGGRAPH公認のオープニングイベントで、プログラムにも掲載されていますからね。そうやって、河口先生は70年代から現在に至るまで、パワーダウンすることなく活躍しておられる。一方で、次の世代のアーティストはなかなか台頭して来ない。その原因はどこにあると、先生自身は考えていますか?

河口:アートで勝負するにしても、独自の形状生成の方法を開発するなど、自分なりのテーマや武器を持っておく必要がありますね。加えて、その武器を常に磨き、発表し続けることも大切です。アーティストに限らず、論文を発表する研究者も、年月が経てばパワーダウンしていく人は多いですよ。80年代に大量の論文を発表したパイオニアたちも、徐々に論文が審査を通らなくなり、審査する側にまわったり、隠居生活に入ったりしています。今現在、第一線で論文を発表している人の多くは、博士課程の若い研究者たちです。ただ、僕自身はまだまだ隠居するつもりはありません。また今から、新しい何かを始めたいと思っています。

芸術といえど、その時代の先端技術を取り込む必要がある

野口:河口先生のテーマであるグロースモデルについて、掘り下げて伺っても良いでしょうか?

河口:深海と宇宙が、僕の長年にわたる興味の対象です。5億年前の深海で発生した生物が成長し、次世代への遺伝を繰り返し、5億年後にはどう進化しているのか、一連の流れを映像化してみたいと思ってきました。グロースモデルには「ゆらぎ」や「渦巻き」という基本原理を設定しているのですが、これらがある場所には生命が発生します。例えば日本の近海の場合、潮の流れの激しい場所ほど、海産物がたくさん採れる。
反対に、淀んでいて変化の少ない場所にはあまり生物がいない。地球に生命が溢れているのは、月の引力によって潮の満ち引きが発生するからです。潮の満ち引きに代表されるような繰り返し運動は、生物が生まれるための重要な要素です。宇宙を見渡しても、綺麗な渦を巻いている銀河は生きている銀河だと思います。なかには扁平な形をした銀河もありますが、これらは生命活動が終了している可能性が高いでしょう。

野口:海に囲まれ、宇宙センターがある、種子島出身の河口先生ならではの着眼点だと感じます。先生はグロースモデルに関する著書のなかで、「作品と合わせて論文も発表することが大切だ」と書かれていましたが、今お話いただいたように表現内容を言葉にすることは、活動の初期から続けられてきたのでしょうか?

河口:CGというのは、作り方を分析すれば誰でも模倣できるのです。だからこそ映像と共に、それを文章化した論文も発表しておかないと、自分の存在が歴史から抹消されかねない。映像と論文は常に両輪であるべきだと、79年に参加したSIGGRAPHの時点で感じていました。実際、SIGGRAPHで映像を発表している人たちの多くが、その理論を記述した論文も残していました。「賢いやり方だな」と思いましたよ。国際的な場所で発表する場合ほど、アメリカやヨーロッパの人たちにも読んでもらえる英語で論文を書くことも大切です。読めないものは無視されてしまいますから。うっかりすると、意図的に自分の存在が消されて、別の誰かの功績になってしまう場合だってあり得ます(苦笑)。

野口:怖い世界ですね。でも、そういうことは芸術や研究の分野に限らず、色々な場所で起こっていますから納得できます。

河口:僕の場合、80年代に作った映像は、今の機器では再生できません。それらが消されないように、今現在の先端技術に合わせて作り直すことも重要だと感じています。例えば葛飾北斎は、90歳近くになってからも富士山を描き続けているのです。『富嶽三十六景』というのは、その時代の最先端の版画技術を使って、富士山というテーマを表現し続けた北斎の軌跡なのです。ピクサーだって、立体視という先端技術を使って『トイ・ストーリー』をリメイクしていますからね。

野口:ピクサーは、映像を作るし論文も発表する。そして過去に作った映像のリメイクもやってのける。改めて凄い存在だと感じますね。

河口:ピクサーの社長であるエド・キャットマル氏は、僕と同世代なのです。彼らは過去から現在にいたるまで、すべての作品を巨大なマーケットでヒットさせ、歴史に作品を残し続けている。これは不利な戦いだなと思います。真っ向から勝負しても絶対に負けるから、ピクサーがやらないことで勝負しようと考えてきました。彼らの作品は商業ベースのエンターテインメントとして評価されているのであって、現代美術館に置かれるとは考えにくい。だから僕は、美術館に自分の作品を残すための努力を徹底的にやろうと思ったのです。2000年頃からは、CGに現代美術という別の価値を持たせるための試行錯誤を続けてきました。

野口:2000年頃というと、東大に移籍された時期ですね。河口先生は1998年に、それまで所属していた筑波大学芸術学系から、東京大学大学院工学系に移られています。(現在は同大学院の情報学環に所属)アーティスト活動をしていながら、工学系に所属されているのは何故なのか、お伺いしても良いでしょうか?

河口:1998年当時、僕は芸術の先生をしていたわけですが、東京大学の工学部からオファーを頂きました。実は同時期に、別の大学の工学系からも声をかけていただいたのです。これは今に続く問題なのですが、工学という分野は、次世代のテーマを探す過渡期にあります。例えば、石炭・石油・造船といった分野は、かつては産業の中心でした。でも今の大学で募集をかけてもなかなか学生は来ないし、世間からの要求も昔ほどには大きくない。同じことが、伝統的な工学の分野にも起こっています。

野口:だから河口先生のような方を入れることで、時代に合わせた変容を試みているということでしょうか。

河口:そうです。僕はかつて九州芸術工科大学(現在は九州大学と統合されている)で学んでいましたから、芸術をやりつつ、工学も学んでいました。だから工学部の先生たちとも話ができますし、どちらの側に所属しても何とかやっていけます(笑)。
現在、僕の研究室に所属している学生たちは工学部の考え方や研究をする人たちです。
僕のアートに関連する、物理的な要素や、生物的な要素が彼らの研究テーマとなります。例えば、津波の動きや煙の動きを高い精度でシミュレーションしている学生などがいます。僕は彼らの研究に対して助言ができますし、彼らの研究成果を作品制作の参考にすることもできる。お互いのギブ&テイクは成立しています。

野口:純粋な美術・芸術大学で活動してきた方には難しい、河口先生ならではのやり方のように感じます。

河口:確かに、芸術の人たちが使う言葉と、工学の人たちが使う言葉は全く違いますね。
片側の経験しかない人だと、僕のようなやり方は難しいだろうと思います。でも芸術といえど、その時代を表現する時には、その時代の新技術・先端技術を取り込む必要があるのではないでしょうか。特に海外を相手に競争する時には、ジャパニーズ・テクノロジーは大きな武器になります。先ほど例に挙げた葛飾北斎にしても、彼と一緒に浮世絵を作っていた彫り師や刷り師の技術は、当時の世界最高水準だったわけです。
当時の日本は鎖国をしていたから、外国にその技術が流出することもなかった。そういう未知の技術力もあったからこそ、各国のアーティストが衝撃を受けたのです。

野口:河口先生にとっては、芸術と技術は不可分なのですね。

河口:僕自身が何かを創作する時には、新技術・先端技術を貪欲に取り込みたいですね。そうして日々改良していかないと、ある日台風に巻き込まれて沈没してしまう。

伝統が生き延びるには、進化のための次の枝葉が必要

野口:河口先生の生き方は、先生が信じているとおっしゃっる海洋性縄文人を彷彿とさせますね。

河口:陸上で生活していた縄文人とは別に、丸太船で島から島へと移動しながら海上で生活していた縄文人も存在していたような気がするのです。彼らの活動範囲は、日本近海だけでなく、ポリネシア辺りまで広がっていたかもしれない。でも、海の上での生活だから遺跡が何も残っていないのです。

野口:その発想は凄いです。確かに、本当にいそうな気がします。

河口:自分はその子孫のつもりで、環太平洋全域を視野に入れて作品を作ろうと思っています。島から島へ移動して、新しい技術やアイデアを取り込んでは、作品という丸太船を改良していく生活です。陸上生活に安住したくはない(笑)。その気持ちが、やがては宇宙にもつながると信じています。

野口:2000年以降の河口先生は、映像だけでなく、立体作品も精力的に作るようになっておられる。先ほどおっしゃっていた美術館を意識してのことでしょうか?

河口:90年代までは、多くの人がCGを凄く大事に見てくれました。でも2000年代に入ると、誰でもがCGを作れるようになり、じっくり見てもらえない可能性が高くなってきました。「これはいけない。だったら、どんな人でも目に入るように、その場に立体作品を置いてしまおう」と思ったのです。映像に出てくるモデルを実体化して、2次元の動画映像と3次元の立体造形という、違った次元で1つの作品世界を見せることを始めました。

野口:河口先生の立体作品は、最近普及している3Dプリンターで作っているわけではないのですよね?

河口:3Dプリンターを全面的に使うつもりはありません。産業的にはとても重要ですが、ああいった、ボタンを押せば何個でも複製できる量産は美術館から見るとちょっと危険だと感じています。デジタルは一品ものではない、簡単に複製できる、そんなイメージが付きまとうので、美術館からは低く見られがちです。どこかに作者の手作り感を残したほうが良いです。
最終成果物の出力に3Dプリンターを使ってしまうと、自分の作品の価値を下げてしまうかもしれない。だから1点1点、手作りするようにしています。1つのシリーズでも、せいぜい2〜3点の量産が限度です。ゴッホの『ひまわり』にしろ、ピカソの『泣く女』にしろ、そのくらいしか量産していませんからね。

野口:そうやって手作りした立体作品を発表することで、現代美術としてのCGの価値を高めようとなさっているわけですね。

河口:先にお話したように、最近は70〜80年代の自分の作品を見直して、特に残しておきたいものを今の技術で再構築する試みもしています。手描きでスケッチをやり直し、アルゴリズムを見直し、系統立て、最終的には立体作品として残したいと考えています。特に最初のアイデアだけは、手描きでスケッチすることにこだわっていますね。日本画や油絵を描いている時間はないので、鉛筆か色鉛筆で描く程度ですけれど、それでもアイデアの原点が1点ものの手描きであることに変わりはないですから。肌身離さずスケッチブックを持ち歩き、移動中にも描きまくっています。

野口:スケッチとはいえ、充分に見応えのある絵になっていますね。河口先生の場合は、さらにこれをCGで映像化し、立体作品も作るわけですね。

河口:映像に関しては、2004年頃から8Kの高画質・高精細でのレンダリングをしています。現在の技術で可能な、最高の画質で計算しておこうと思ってね。でも世の中には8Kの再生環境がほぼないので、どうやって見てもらえば良いのかなと悩んでいたのです。そうしたら先日、ハワイ島のスバル天文台で開催された国際会議に参加する機会があり、現地の方がプラネタリウムで映像ショーをやりたいとおっしゃった。
でも4Kの設備しかなく、強引に8Kを4Kに変換して上映しました。そうしたら、これが想像以上に良かった。同席した40〜50人の先生方も絶賛してくださいました。

野口:プラネタリウムということは、全天周(ドーム状のスクリーン)でご覧になったわけすね。

河口:凄く臨場感がありました。これなら、一般の人にもCGの面白さを感じてもらえるかもしれない。そんな可能性を感じたので、当面はこの見せ方を頑張って追求したいと思っています。プラネタリウムという施設は、宇宙という僕のテーマとも合致しますからね。

野口:日本の伝統的な着物に、河口先生の映像作品のイメージをプリントする試みもされていますよね。これにはどんな意図があるのでしょう。

河口:着物に限らず、焼き物、木彫、ガラス造型など、日本の伝統的な工芸品の進化の形をCGの側から提案してみたいと考えたのです。立体作品の一部に、伝統工芸の焼き物や木彫などを使うといった試みもしています。伝統工芸を極めてきた方々から見れば、突拍子もない使い方もたくさんしています(笑)。ただ、これには意図があるのです。現在確立している伝統は凄く重要ですが、その伝統が将来も生き延びるためには、進化のための次の枝葉を持っておく必要があるというのが僕の持論です。日本全国で伝統的なもの作りの存続が危ぶまれていて、後継者が不足している。でも、これらはハリウッドを始め、外国にはないものだからこそ、新たな価値を打ち出せる可能性を秘めている。CGを使った未来型の伝統工芸を提案することで、新しい進化の扉を開けることに貢献できればと思っています。

野口:アメリカのSIGGRAPHに、SAKEパーティという形で日本の伝統文化の鏡割りを持ち込んで定着させた、河口先生らしい発想ですね。生き残り、差別化、進化など、表現活動を続けるうえでのアイデアの原石を数多くいただけたように思います。有難うございました。

河口洋一郎:Yoichiro Kawaguchi
1952年、種子島生まれ。1976年、九州芸術工科大学画像設計学科卒業(現、九州大学)。1978年、東京教育大学大学院修了(現、筑波大学大学院)。1992年より筑波大学芸術学系助教授、1998年より東京大学大学院工学系研究科・人工物工学センター教授、2000年より東京大学大学院情報学環教授。ユーログラフィックス、パリグラフ、アルスエレクトロニカ、IMAGINAなどにおける数多くの受賞歴を有する。2010年のSIGGRAPHにて、長年にわたりCG界に大きく貢献し続けている研究者・技術者・芸術家に与えられる、ACM SIGGRAPH Award : Distinguished Artist Award for Lifetime Achievement in Digital Art を世界で3人目に受賞。2013年には芸術選奨文部科学大臣賞、さらに紫綬褒章を受章。
Supported by Enhanced Endorphin
INTERVIEWER : 野口光一(東映アニメーション)
EDIT : 尾形美幸(EduCat)
COOPERATION : 沼倉有人(CGWORLD)http://cgworld.jp
PHOTO : 弘田 充
LOCATION : 東京大学 河口洋一郎研究室

Backnumber